意識してもしなくても - 一番むずかしいのは自分自身かも

時間が経って見えるようになってきたもの

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子どものころの遊びに あぶり出し というものがありました。今の子どもたちもやっているでしょうか?

七輪とか火鉢なんていうものがあたり前だった時代、大根のような野菜やリンゴのような果物の果汁をつかって白紙に字や絵を描いて、果汁が乾いたところでその白紙を七輪や火鉢の火にかざすのです。そうすると果汁の部分が焦げて見えなかった字や絵が浮き出してくるのです。

子どものころ、あるいは大人になる前と言った方がいいでしょうか、そのころに見たり聞いたりしたことの意味が今になって分かるようになったと感じることがいろいろあります。あたり前だろう!! と言われそうですが、その感じがちょうどあぶり出しを思わせます。

大人になる前に見たり聞いたりしたことを覚えている、忘れずにいるというのは誰でもそうなのだろうか? とも感じています。

fighting with your job to find your way

なぜか立ち帰る という性格

結婚生活を長い旅や航海に例えるのと同じように、学業生活をマラソンに置き換えたりするのと同じように、何かをえらく時間をかけて確認するというようなクセが私にはあるようです。

これまでの記事に書いたように、プログラミング言語のC, C++とSGML/XMLの構造がよく似ていると感じる感覚を持つ私は、たとえば、造園と企業のマネージメントでやっていることが同じだと思うことがあります。造園の仕事と企業のマネージメントに関わる仕事、その経験の間には20年を軽く超える時間差があります。

何年というレベルの時間をかけてC, C++を学んだり何かのシステムを作るような仕事をやり、そのあとでSGMLに取り組むという任務に携わり何年かを過ごし、SGMLとの付き合いが一定のところに来たとき、何年というレベルの時間のあとで、そのふたつの経験を比べる⁈ というようなことをやっているのです。

C, C++にしても、SGML/XMLにしても、わざわざ共通項がないかと考えたりしているわけではありません。どんなことも、やったり聞いたりしたことを忘れずにいようと頑張っているわけでもありません。

ただ、ふと気がつく、ふと振り返ってみているだけなのですが、「そう言えば…」と思うのです。習性というのか、本能というのか、なぜ立ち返ろうとするのか、それが自分でも不思議です。

徳にもならないし、ほめられることもない。むしろ変人扱いされることの方が多いのに(あるいは、多かったのに)立ち返ろうとする。本能+個性を言い表す言葉がないと、自分のこの部分を説明できないなと感じます。

分析したり確認したりする必要はないのだけれど

この性格(と言っていいのかどうか分かりませんが)を自分ではっきり意識したのが、父との間で交わした言葉でした。

どこかで記事にしたことがあると思いますが… 父と意見が合わないことがあったとき、父がこう言いました。

どうしてお前は人の言うことを素直に聞こうとしないのか⁉︎
素直さのない人間は成長することもできはしないということが分からないのか?

と。

そのとき、私は反射的に切り返していました。

人の道に外れない限り、自分が正しいと信じることを貫く強さを持て - そう教えてくれた人が、相手が何を言おうとしているのか確かめようともせず、素直じゃない! とレッテルを貼って分かった気になっている。
自分の言ったことには責任を持つんだと教えてくれた人が、自分はその責任を投げ出したんだな!?

と。

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このときの私は、父の言葉を10年以上さかのぼっていたのです。
親に向かって言っていいはずのないことを使っていいはずのない表現で言ったのですが - それだけに自分自身でも強く記憶に残っているターニングポイントでした。

そして最近になって、同じような “立ち返り”、”さかのぼり” をやっているらしい?! ということに気がついたわけです^^;

誠実と言おうか、執念深い?! と言おうか^^; - ああ、そうなんだ! ですませてまったく問題ないと思っていることですし、その命名にこだわる気は毛頭ありませんが、これも自分を知るということなのだろうか?? と考えています。

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