自分探し - 時間を忘れて自分と話すことができますか?

認めるのがどこか怖い - 「ひとり」ということの意味がわかったら

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目をそらしたり、話しをそらしたりすることなく、「ひとり」そして「自分」ということを考えることができるだろうか? 話すことができるだろうか?

たぶん、誰もがみんな感じたり考えたりしたことがあるのだろうけれど、真正面から「自分」を語り合おうとは誰もしないだろうなと感じます… どうでしょう?

「誰もが通る道」と言いながら、よく似た言葉、よく似た感情を持っていたとしても、同じように「誰もが通る道」と言いながら、答えを出すことなく通り過ぎてきた - それが「ひとり」ということであり、「自分」のことなんじゃないだろうかと思うのです。

そんな簡単に、今ここで答えなんか出るものではありません。だから、「むずかしい」とか「人生は学問とは違う」とか「哲学を語れるのは若いうちだけだからね」と言いながら、ミスターチルドレンの歌の文句ではないけれど、くらいとちゃかして終わりにできるのですね。答えが出なくても、こだわりが胸からなくならないとしても、時間は流れていくし、明日になってしまうのですから。

自分なりの答えを出すことができる - そのとき「ひとり」が分かる

そんなことも、無駄な考えと言われながら考えてきたから分かったことですね!^^;

そしてもうひとつ思うのは、どんな形ででも自分をつかまえたいと思うのなら、誰がどう言おうが答えを求めればいいということ。誰がどう言おうが - と思ったところで「ひとり」ということが分かります。

分かち合う相手はいないし、求めない - それでも相手を尊重しようとする思いは、分かち合えないことを知っていればこそ、もてる思いでもあるのです。

矢作 直樹さんの著書「ひとりを怖れない」、そのそで*にこんな言葉が印刷されています。

無理に求めず、自分が自分らしく、
あるがままでいられる状態、
それがひとりではないでしょうか。
寂しい、怖い、そんな感情を超えた先にあるのは、
心から満ち足りた、たったひとりの時間です。
「人生を楽しむことは、ひとりでもできること」だと、
私は感じています。

MEMO:
*: そで というのは、本の表紙にかけられたカバーを表紙と裏表紙を包むように、本の中側に向かって折り返した部分のことですね。

みなさんはこの言葉を「確かにそのとおりだな」と思われますか?
「だけど…」と、何か違和感が残りますか?

矢作さんは、そんな人それぞれの思いがあることを承知で、だからこそ、そのそれぞれの思いの中に「ひとり」ということを意識する時間、瞬間を持ってみてはどうだろう?! … そんなふうに話しかけようとしていると感じるのですが…

私個人は「だけど…」という違和感 - あるいは切なさと言うほうがぴったりくるかも知れません - を感じている方の人間です。

矢作さんが言われるように、「人生を楽しむことは、ひとりでもできる」かも知れない。だけど、自分の中には「人はひとりでは生きられない」- 人との関係を大切にしなくてはならないと教わり、それを実践してきたという感覚、価値観の方に重きがあるような気がしているからです。

20代のはじめ、私の辞書にも? 「孤独」という言葉がありました。
自分をあるがままに受け止めてくれる… そういう誰かを求める気持ちが抱いていたのがこの「孤独」という言葉だったのですね。

そして30代を迎えようとするころになって、人はもともとがひとりなんだと、すねたりひねたりではなく、まっすぐに認めなくてはいけないことなんだという感覚で、この「孤独」という言葉を自分のものにすることができたように感じていました。

そして、ひとりだからこそ、自分は誰かと生きたい… そんな感情、感覚を持つようになっていったのです。

矢作さんは

寂しい、怖い、そんな感情を超えた先にあるのは、
心から満ち足りた、たったひとりの時間です。

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と言っています。
「寂しい、怖い、そんな感情を超えなければ、満ち足りた、ひとりの時間」に届くことはできない… というようにも聞こえますね。

けれど、わざわざそうやってひっくり返したりせず、矢作さんの言葉のままに進んでみてもいいだろうと思うのです。もし、「自分」を考えたい思いが止まらなかったり、「ひとり」の寂しさや怖さを小福できないものだろうかと思うのなら。

すべてを自分の責任として引き受ける… そんな自分にたどり着くことを夢見ることからはじめてもいいだろうと思うのです。
みなさんはどう思われますか?

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