人間関係=信頼関係 を望むのなら - 自分たちの矛盾に気がつかなくちゃ

信頼、礼儀 - みんなと自分の間に何がある??

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お互いが感じていること、考えていることを率直に伝えるということと、
お互いを尊重し合うということを両立させたいと思うし、
両立できるはずだと思っているのに、
何故かお互いに気を使い合い、想いや考えを伝えることをやめてしまう。
やめてしまって、お互いに疑心暗鬼に陥っているように感じる -

思いやりがあるからこそ? の不信感のような、無駄な気遣いをなくすことはできないものだろうか…

私たち自身が陥りがちな負のスパイラルをみんなで考え直し、共有化して正していかないか!?
そんなふうに、若い仲間たちが文字通り、互いの窓を開けて風を通したいという思いを言葉にして話し合おう、行動を起こそうとしています。

これが、私たちが持っている “常識” というもの

私たちが陥りがちな負のスパイラル。

仲間たちのほとんどが同じ感覚で受けとめ、ほとんど同じ反応をしている。それが無意識のことだとしても、みんなに共通の感覚… フィーリング…、基準という意味では私たちにとっての 常識 だと思わなくてはいけないような気がするのです。

これはどこかがおかしい! という感覚も含めて。

互いの個性を尊重して、信頼関係を築きたい、けれど出しゃばってはいけない!? -

私たち自身が陥っているスパイラルを自分から断ち切りにいくことさえ、自分の立場を考えての行動だねと、周囲のみんなに認められなければ取るべきではないと判断される。しかも、その周囲の理解を得られるようにと意見を確認したり、その意見を調整しようとする行動は、みんなの感覚の平均値を少しでも逸脱すると

  • ポジティブな意味の 根回し から
  • ネガティブな意味の 口裏を合わせる 行為

に転落してしまいます。

礼儀が尽くされているかどうか - その感覚はその疑問のとおり言葉にして話してみないと確かめることができない。だから、たとえば、より年長・より権限を認められている人が率先して調整役を買って出てくれないものかと思う感覚が働いたりすることもあるのです。

そうした調整をするために役職があるのじゃないのか!? とか
権限を持っている者は調整の必要を感じたり認識することができないのでは意味はないだろう!? という攻撃になったりするのですね。

そんな時には、互いの個性を尊重したいと思っていたはずの基準と基準のつながりはあっさりと放棄されています。それも、負のスパイラルが働いていることの証拠のようなもの。

そう言葉にしてみると、私たちの “常識” というのはとてもむずかしく、やっかいなものだと感じます。

関係についての責任

組織は、もはや権力によっては成立しない。信頼によって成立する。信頼とは好き嫌いではない。信じ合うことである。そのためには、たがいに理解しなければならない。たがいの関係について、たがいに責任をもたなければならない。それは義務である。
…「明日を支配するもの」

出典:P.F.ドラッカー氏・「仕事の哲学 (ドラッカー名言集)

「たがいの関係について、たがいに責任をもたなければならない。」- 私たち自身、そこまでの自覚はないんじゃないかと感じます。何より、「責任」というのは何なのかを説明したり、共有したりする文化が私たち - 少なくとも日本人の間?! - にはないだろうと思うのです。

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互いの個性を尊重しながら信頼関係を築きたい… その思いに 責任 という言葉をつなごうとすれば、そこでもまた、別の違和感を感じることになるでしょうね。

わざわざ手順とか了解を求めるような 責任 などにつながなくても、常識で判断できるだろう! と。

 

それほどにむずかしい、やっかいなこの課題、課題というより、自分たちの思い - 互いの個性を尊重しながら信頼関係を築きたい… - を実現できるか、若い仲間たちの頑張りに期待したいと思います。

 

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