自分に素直でいることは優しいことのはずですね

自分を認めてあげようよ!

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「あせらず、いつわらず、背伸びせず」という言葉をならべて、自分で安心できる自分をつかまえたいものだと思うようになってもうずいぶん長い時間が経っているように思うのですが、泰丘 良玄さんの著書「人生はブレていい。 – 平成の一休さんのポジティブ・トンチのすすめ –」の中によく似た言葉を見つけました。

偏らない、こだわらない、囚われない。
そんなふうに生きていけたらラクだろうけど、どうしてもできない!
いや、それでもいいんです。どうしたって、偏る、こだわる、囚われるときはきてしまいますから。
でもそのときに、「偏らない、こだわらない、囚われない」の考え方もあることを頭の片隅に入れてみる。ただ、それだけで、そのあとの気持ちの立て直し方が大きく変わると思うのです。
ややこしいのは、本当は悔しい、悲しい、腹が立つ気持ちがあるのに、それを心の奥に閉じ込めて、偏らないフリ、こだわらないフリ、囚われていないフリをすること。

言葉の世界で自分を表現し、相手を受け止めるということを考え続けている私には、伝え、理解することは表裏一体、どちらか一方だけでは成り立たないのだという感覚があります。

ありのままの自分でいること、ありのままの相手を受け入れること - 言ってみれば 1:1 でいられるようになってはじめて自分の気持ちが一番落ち着いていられるのだなと気づいたようなところがあるのです。

ところが、そこまで感じることができるようになっていても、私たちの中にはまだ頑ななところが残っていそうだと思わせる一節が続きます。

こんなふうに衝撃を受けて感情が強く揺さぶられることがあったら、その心には正直にいてほしいです。
悔しかった、悲しかった。そう感じ切ってから、ほどほどラインの中道に持っていけばいい。無理やりなかったことにしようとすると、心はこじれ、新たな問題に発展するかも知れない。

そんなとき、自分を全肯定できる言葉が、
「まぁ、いいや」です。

どんなときでも、自分の一番の味方は自分でいてほしいのです。

何よりこの一節を読んでいて思うのは、やはり、今の自分は自分にどれくらい寄り添えているだろうということです。

自分の味方でいるということは、私の言葉で言えば、自分のあるがまま
その自分のあるがままでいるということは、自分で自分を支えるということだと思うのですが、そのために必要なのは自分で自分を認めるということ。ところがその自分で自分を認めるというのは以外とむずかしいことです。

自分で自分を認めることができなければ、自分の心に正直でいることもむずかしくなると言えそうですが、私たちの心にはいろいろなダメ出しがされていたり、ロックがかかっていると感じるのです。

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何より、独善 - 独りよがり - ではいけないというロック。
自分を認めるというのは客観性のない自分だけの価値観に固まるということのように思えて、特に、人に対して一歩下がれ - 自分を下に置くのだ - と教えられてきた私たちは自分で自分を良しとしてはいけないという感覚を持っている気がします。

それに、「まぁ、いいや」とごまかしてはいけない - そんなロックもかかっているように思います。
いったい、どこで誰に教えられたものか、なぜこれほど裏から裏から捉えようとするのか。ダメ出しありきの中で育ってきた私たちにはますます自分を認めることができなくなる恐れがあるように感じるのです。

言い換えれば、「ありのまま」を大切にしようと考えるのは、正直な自分を自分で認めることができないできたことの裏返しかも知れません。だとすれば、もう一度、肩の力の抜き方を覚えなくてはいけないなと思うのです。

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