“第三章 「摂理」を知る” の意味

著書 「魂と肉体のゆくえ ―与えられた命を生きる」 のその章で語られている矢作さんの言葉を私なりに意訳してみると…

私たちは私たちを作り、私たちを生かしている大いなる意志の中にいる。その意志は、謙虚で素直な心になれば感じることも認めることもできるはず。生き方に迷うようなときでさえ、答えを指示してくれるその意志に近づき、触れることができる自分を見つけ、より自分らしく暮らそう - そんなことでしょうか?

もしも、この世界を誰かがつくったとすれば、何か大きな存在がそこにはあることを認めざるを得ません。

その大きな存在を、「神」といったり「摂理」といったりする、というのが、私の「摂理」についての解釈です。

命に対する私の感覚が矢作さんの言われているものと同じかどうかは分かりませんが、生かされている、あるいは何か説明できない意志のようなものを感じるということが私にはあります。

私たちの世界を形作り、動かしている - そんな力があるのだろうかと。
私自身、その答えを求めた時期もあったような気がするのですが、そこに何があるのかということよりも、今は、その意志のようなものを感じるままにしていていいのだと思うようになっています。

この心境の変化はどこから来たのでしょう。

一番大きなきっかけは、両親の最晩年。介護や闘病、そして別れだったような気がします。

 

私の感性が感じているもの

私が感じる「意志のようなもの」は、どこまで行っても「ようなもの」。
その感覚は、矢作さんが紹介されている葦原瑞穂さんの言葉を読むとなおさら強くなります。

「神」という言葉は、その実相については誰ひとりとして識っている者はいないにも拘わらず、あらゆる人々がこの言葉を自分の勝手な考えで以て使うので、様々な混乱が生じてきたわけです。

本書ではこうした事情を配慮しつつ、同一の実相を表すために、その場の状況と必要に合わせて「神」「真理」「生命」「霊」「大いなる心」「実在」「愛」「叡智」「エネルギー」「摂理」「法則」「宇宙」といった言葉を使い分けていますが、これらの言葉が出てきたときには、自分の心で造った概念を引き寄せるのではなく、心を透明にして、それぞれの言葉の最初の響きを感じることができるようになって頂きたいと思います。

(葦原瑞穂 『黎明』 上巻 太陽出版刊)

つまり、私にとってその「意志のようなもの」は、どの言葉ででも語れる、逆にどの言葉ででも言い表しきれない、そんなものなのです。

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ですから、矢作さんの言葉を読んでいて、矢作さんは言葉の不自由さのようなものを感じながら本を書かれているのではないかと感じます。

「神」「真理」、あるいは何か別の言葉であっても、言葉 - 文字にするから分からなくなる。そんな危うさを感じさせる話でもあるように思います。

もしも、なにか好きなものを見つけられたら、それは、あなたにとっての摂理の現れと考えてよいと思います。

「私は人助けが好きだ」
「私は絵を描くことが好きだ」
「私は作物を作って、みんなに食べさせてあげたい」
「私はまわりの人を癒してあげたい」

そういう感覚のなかに神意を感じられるなら、それは摂理にかなっているといっていいでしょう。

耳を澄まして… という言葉がありますが、文字や言葉に惑わされず、心を澄まして、ここに語られていることを感じたいと思うのです。