見えるもの、見たいものだけを見て生きて行けるのだろうか

人間は「死」に大きな恐怖感を抱く必要はないのだと強調したうえで、村上先生は次のように述べて本書を締めくくっています。

今のアンチエイジング、反加齢という流れは異常です。それとは逆に「いかに老いるか」「いかに死ぬか」を考え、実践するほうが人間にとって幸せです。
なぜなら、いかに生きるかとは、いかに死ぬかということだからです。死の問題を解決するためにも、魂を理解すると同時に、あの世のことを知らなければ、本質的な幸せは得られないと思います。

出典:矢作直樹氏/一条真也氏 対談・
命には続きがある肉体の死、そして永遠に生きる魂のこと

この対談の中で一条氏が紹介しているのは、筑波大学名誉教授、遺伝子研究の第一人者とされる村上和雄氏の言葉ですが、何かはっとさせられる言葉ですね。

 

以前、核家族という今の私たちの暮らし方は、人間がもともと持っていた自然な生き方、本性に逆らった暮らし方なのだという内容のテレビ番組を紹介したことがありましたが、そのときの感覚が重なります。

かつて、私の親族で葬儀があったときのことでした。
故人のひ孫にあたる幼い子どもが、葬儀そのものを怖がり、葬儀場に行くこと、故人の骨を拾う場にいることを拒むという場面に出会ったことがありました。

故人は朝に夕に、仏壇に手を合わせ、経を唱えることを習慣としていた人で、孫もひ孫たちも、線香の香りや手向けられる花、お盆の迎え火・送り火にもごく自然に触れて過ごしている人たちでした。そのひ孫も故人と並んで小さな手を合わせて仏壇の前で過ごしたことも何度もあったのです。

故人の孫にあたる、その子の両親はもっと仏壇や墓参り、先祖たちとの対話に近いところで暮らし、育ってきた人たちでした。それでももしかするとその子は、それ以前に葬儀を経験したことがあって、小さな胸には抱えきれない「生」とか「死」に一人で向き合っていたのかも知れません。

 

見えなくても感じることができるとしたら

「生」や「死」を感じたのをきっかけに、どんなに一生懸命考えをめぐらしてみても抜け出せない迷路に入り込んでしまったような重苦しさを経験したというのは、きっとその子に限ったことではないように感じます。その迷路の感覚はなくなってしまうことはないけれど、今日・明日の暮らしが忘れさせてくれる - そんな感覚も多くの人がうなずけるものではないかと思います。

ただ何故か、私たちはその迷路の感覚から離れたところで暮らすようになり、その感覚 - 「生」からも「死」からもうんと遠いところで暮らすようになってしまっている、そんな気がします。答えの出し切れないものを封印したまま、それでも「そんな答えがなくても、今日という日を過ごすことに何の問題もない」と思っているのではないだろうかと感じるのです。だからこの言葉にはっとさせられたのです。

それとは逆に「いかに老いるか」「いかに死ぬか」を考え、実践するほうが人間にとって幸せです。

けれどその発想は直感的ではありません。
考えるまでもなく自然と反応できるのは、今日の予定、明日の目標を追いかけて仕事が忙しい、勉強が大変だと言って過ごすことです。それに対して、”「いかに老いるか」「いかに死ぬか」を考える” ためには、今日の予定、明日の目標をわざわざ裏に回って、今日の予定の意味、明日の目標の意義に立ち還らなくてはなりません。

一日の務めを果たして 「ああ、疲れた」 と疲れを癒すだけではなく、今日一日は何のためのいちにちだったっけ? と振り返りながら明日に備えるのに似ています。要するに、時間のかかるむずかしさが付きまとうのです。別の言い方をするなら、抱えきれない重い問いに小さな胸が苦しんでいても「みんなが通る道なんだから」と言って助けることができない、助けようとはしないのがより直感的な日常。一人ひとり感じ方、受け止め方が違うだろう苦しみに耳を傾け、いっしょに考えようとするのが「いかに死ぬか」を考える日常 - そんな感じです。

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だから、村上氏のその言葉は、忘れたいと感じる封印したままの究極の箱をしっかりと開けてごらんと言っているようです。

 

心に触れるものがあるかも知れない

受け止め方によっては、この矢作氏、一条氏の対談の内容は、両氏が互いの経験や知識を交換し合うだけのもので、自分の死生観や世界観に何らかの示唆やアドバイスを求めたい人たちにとっては敷居の高い、あるいは隔絶した世界の議論のように響いてしまうかも知れない - そんな危惧を感じます。

散りばめられたたくさんのテーマ、そこで語られるたくさんの言葉がもし心に触れることがあったら手に取って見てみる - そんな感覚で読んでみるといいかも知れません。