『十歳のきみへ』- 純真で素朴な日野原さんの言葉が届くかな?

十歳のころの自分を覚えていますか?

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2006年。今から16年も前にこの本を出されたとき、日野原さんは95歳だった - そう考えると、日野原さんがいかに長寿を全うされたのかがよく分かりますね。

その日野原さんが『十歳のきみへ』と題して子どもたち向けて綴った言葉。
そこには、もう十分大人になっているはずの私が聞きたかったと感じるような話しが語られています。

からっぽのうつわのなかに、いのちを注ぐこと。
それが、生きるということです。

寿命というのは、つまり、生きることに費やすことのできる時間です。
それは、生まれたときに、
「はい、きみは日本人ですね。では、いまのところの平均寿命は八十二歳ですから、八十二年分の時間をさしあげましょう」と、平均寿命に見合った時間をぽんと手わたされるようなものではありません。それはまるで、生まれた瞬間から寿命という持ち時間をどんどんけずっていくようで、なんだか生きていくのがさみしい感じがしてきます。

わたしがイメージする寿命とは、手持ち時間をけずっていくというのとはまるで反対に、寿命という大きなからっぽのうつわのなかに、せいいっぱい生きた一瞬一瞬をつめこんでいくイメージです。

出典:日野原 重明氏 著・「十歳のきみへ―九十五歳のわたしから

生きることの意味を確かめる… 日野原さんの言葉にはそんな表現がよく似合うような気がするのですが、こんなふうに(生きることの意味を確かめながら)暮らすことができたら、ずいぶん面白いだろうな - 私にはそんな感覚があります。

日野原さんが語る寿命時間は、
自分はどうして生まれてきたのか、どう生きていけばよいかという
人の、根源的な問いに通じるものです。

それを「十歳のきみへ」と話しかけている。

子どもにこんなむずかしい話しが分かるわけもない! と話すことをやめてしまうのは大人の勝手ですが、この問いは本当はそんなにむずかしいところから生まれてきたわけではないなと感じます。

生きるってどいうこと?
そういう問いは誰か、どこかに響いたという手ごたえなく、自分の手もとにもどってくるもの - あるいは、なぜそんな哲学的で頭の痛くなるようなことを考える? という残念な反応が多いように思います。日々を暮らしていく中で、そんな「なぜ? どうして?」を求めても、おなかはいっぱいにならない。

生きていくには「どうやって?」さえ分かれば十分だろう…
なぜそんな、役にも立たないことにこだわる必要があるんだ??… と。

自分の命が発する問いかけならば

けれど、生きるってどういうことなのか? … どうして生まれてきたのか? …
それはたとえば、

空はなぜ青いんだろう?
雲はなぜ白く見えるの?
夕陽はどうしてあんな色に輝いて見えるの?
秋になると木の葉の色が変わるのはなぜ?

そんな子どもらしい素朴な疑問と少しも変わらない、純粋な「どうして?」から生まれてきた疑問なんだと思うのです。

何故その疑問に答えることを避けてきたのか?
日野原さんの言葉に、そんな自分への問いかけが重なるような気がするのです。

十歳の子どもが命や時間を意識するなんてことがあるわけはない! と言うとしたら、子どもだったときの記憶が遠くなっているのです。

子どもの純真さがなければ、命を感じることなんてできない! かも知れないのですから。
さまざまな経験を積んで、知識として「人の命」を理解できるようになるというのとはまるで違います - 命を感じる というのは。そう思います。

だから日野原さんは、感じることができる心に向かって、

からっぽのうつわのなかに、いのちを注ぐこと。
それが、生きるということです。

と語りかけている - そう感じるのです。

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あるものを削っていくことではない… からっぽの器を満たしていくこと
だとしたら、生きていくことがとても素敵なことに思えてきたり、その分余計に、生きていくことが切なく感じられたりしそうです。

なぜなら、「限りある命」という知識を持ってしまっているのですから…

何十年もの時間がたっても、子どものころ、私の中にあった疑問が今もちゃんと残っている。そんな気もします。だから、そのころの自分とふたり、自分なりの答えがみつかるか日野原さんの言葉をゆっくりたどってみようと思うのです。

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