言葉はたくさん交わし、たくさん教わるべきだと思う

私のように生きたらロクなことになりませんよ、というのは、みなさんが物質的なことに価値を置かれるならという前提があります。今はもう世界中を物質的な価値観が覆っていますよね。精神性というのはどこにも無くなった。これからもその方向へどんどん進んで行くんでしょう。
まあ、好きなように生きていくんですよ、人間は。だけども、その中で精神性だけは少しでも残しておきたいというのが、今の私の願いです。

出典:佐藤愛子氏 著・「それでもこの世は悪くなかった (文春新書)

物質的なことに価値を置かないところがあったので、私にとって、私の人生はそれなりに意味のあるものだった。物質的なことでないもの、それが私にとっては精神性なんだ - この著書の最後に語られている佐藤さんの言葉を、そんなふうにひっくり返してみると、私にも佐藤さんの言おうとしていたことが分かるような気がします。

そして同時に、ひっくり返さないと分からない世代かな⁉︎ と自分を振り返りたくもなります。

1つの言葉で書かれたことを別の言葉で伝わるように書き直す⁈ 翻訳というのは読んで字の如しでひるがえすものだから、職業病みたいなものかなと思ったりもするのですが…

分かる・理解すると言いながら、その実、言葉をそのまま受け止める力がなくなっているものだから、わざわざひっくり返すなんていうアプローチをかけなくてはいけない - それが、佐藤さんの言われる精神性がだめになっていることの現れなのだろうかと心配になったりします。

読みようによっては、時代が変わり過ぎたし、私たち自身が変わってしまったのだから、同じような生き方をしたいと思ったとしてもそれはかなわぬことなんだと言っているのでしょうか? 語り口から思い出すのは豪放磊落(ごうほうらいらく)という言葉。

同じ時代を生きているのにいったいどこが違うのだろう?? と思いながらも、私にとっては、佐藤さんと同じ干支 - いのしし - だった母を思い出させる懐かしさのようなものも感じます。

文明は進歩しましたけれど、人間は進歩したかというと全然進歩していない。目だって耳だって歯だって、その衰えを補充する技術や医療が発達しているから、いつまでも若々しくしていられるのであって、脚力にしろ腕力にしろ、かつての人間に比べて本当に衰えていると思います。

(中略)

そして、肉体だけでなく、精神力も衰えてきているんです。諦めたり我慢したり、あるいは許すということは、いまは美徳ではなくなったんですね。欲望を抑えるのが昔は美徳だったんです。ところが、今は欲望はどんどん満たさなければ不幸だ、と考えるようになっている。もうこれで十分、ということがないんですね。

「自分で自分の口を養えるようになるまでは食卓につくのに胡坐をかくもんじゃない!」 - そんなことを言っていたのは明治生まれの祖父でした。”お天道様に恥じない生き方” - そんな言葉で私たち孫に色々なことを教えてくれた祖父。その人の子どもだった私の両親も、佐藤さんの言葉によく似たことを口にしていたような気がします。

「できるのできないのと騒ぐのは、少なくとも7回、自分でやってみてからにしろ!」 「楽あれば苦ありという言葉を覚えておけ! 人生というのはそうやすやすと渡れないようにできているんだ!」 … 思い出してみると両親からもらった説教? - 言葉はずいぶんたくさんあることが分かります。

「光陰矢の如し」も、「少年老い易く学成り難し」も、「三歩下がって師の影を踏まず」も両親から教えられたものでした。よく考えてみると、佐藤さんの言葉に通じるものがそこここにあったような気もします。

どんな学問も、自分を支えるための知識を身につけるためにするのだ。
入試のための勉強は、その学問をする学校に入るため。そのことを忘れてはいけない。

そんな目の覚めるようなことを教えてくれたのも両親でした。

覚えたばかりの理屈をひけらかすような言動をとろうものなら即座にダメ出しが来る - そうなんです。怒るのは佐藤さんの専売特許? ではなかったのですね^^;

 

精神性を大切にして生きていたい - 佐藤さんはそんなふうに言っていますが、「暗いと茶化して笑うのかなぁ」と歌の歌詞にあったように、私が育ってきた時代には、みんなで精神性を否定した時期があったなという自覚があります。

答えようのない、答えを見つけようとすれば一体どれくらい時間がかかるか分からない - そういう話題は誰の前でも口にするものではない。「しらける」という言葉が流行ったのもその頃で、自分の悩みは自分だけのもの。誰にも聞かせるものではないというような風潮を私たち自身が産んで育てたのです。

だから、精神性は無くなったのではなくて、私たちが自分の手で無くしてきた - 私にはそんな感覚があります。

だから、佐藤さんの言葉は身に覚えのある “痛い” 言葉です。

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それぐらい今は何かヘンな世の中になっている。男らしさがイカンということになっている。だからみんな男らしさを捨てたんですよ。
男らしさはイカンと言い出したのは誰か。それは女が言いだしたんです。そうすると女らしさはどうなるか。女は女らしさを強いられてきたのだから、これも捨てるべきだという。

男は尊敬すべきものだ、女は尊敬すげき男に従って調和して子どもを育てるものだ、と叩きこまれた私たち大正世代はですね、もう何が何だかわからない。

こんなこと、うちに来たお客さんに言おうと思っても、いや、もしかしたらこの人は違う意見の持ち主かもしれない。そうすると後々厄介なことになる、そう考えて我慢するんですね。私みたいな暴れ猪でもそういうことを考える時代になっているのは、嘆かわしいことだと思います。

そして、私たちの中にある礼節の部分が、佐藤さんの言葉をそのまま受け入れるように私たち自身を制御しています。
佐藤さんのこの言葉をもし20代、30代の若い人が言ったとすれば多分誰も耳をかそうとはしないのです。

精神性は無くしていても、その精神性と対になっていた礼節 - あるいはその一部 - は生きている。”痛い” のといっしょに、どこか “せつない” 存在。それが今の私たちなのかも知れない。

自分の中の日本人を呼び戻すことはできないものだろうかと思ってしまうのです。