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1936年生まれと言えば、今年で81歳になられるのでしょうか。
「私といっしょに考えてみませんか」とNHKスペシャル・人生の終い方の中で私たちに話しかけてくれた落語家 桂 歌丸さんの場合も、「人生の終い方 自分と大切な人のためにできること」の中で紹介されています。

実は私たちも歌丸師匠と変わらず、任された世界を持っている、それをどう捉えるかは自分次第なんだ - そう言われているような気がしながら番組を見直し、この著書に綴られている言葉をたどりました。

 

How To ものではなく、先輩たちに学ぶ

超高齢社会の日本では、今、お墓や遺影、葬儀の準備など、いわゆる「終活」が大ブームだが、「人生の終い方」はこうした段取りとはちょっと異なる。

と綴られているように、先輩たち、あるいは同僚たちがどう生きたか、どう生きているかを終末につないで見ているのです。

今だから考えることができる命の意味

今流行っているから!… ではなく、私の場合は父・母と相次いで見送ったあと、人生を終えるときに向かう準備をするという意味で “次は自分の番” という感覚がとても強く、それと比例するように、どうして父と私の間には「人生」とか「生きる」ということをテーマにした言葉、気持ちのやり取りがなかったのだろう思ったものでした。

私の場合、「生命って何だろう」、「自分は何のために、どうやって生きていけばいいだろう」というのに近い疑問を意識したのは10代の後半でした。

ただ、その当時は “暗い”、”重い” ことは笑い飛ばせばいい… という風潮が育ったころでもありましたらか、「人生如何に生きるべきか」なんていう正面切った話は敬遠される以外にないものでした。

それが大事なことだと分かっている、けれど、簡単に答えが出ないことだということも分かっている - けれど、べき論で凝り固まった古い価値観をはね返して、自分らしさを求めるためにも “暗い”、”重い” ことは笑い飛ばすんだという流れの中で、そういう抽象的、あるいは哲学的とも言えそうな話題は意識のはじに追いやられていたのです。

友人と過ごす時間にことさらその話題を出しては場をしらけさせたことを覚えています。不器用な10代からいくらか経験を積んだ20代へ - それでもなぜだかは分かりませんが、「人生如何に生きるべきか」というたぐいの疑問はずっと意識の底に横たわっていたように思います。

言ってみれば、当時は口にできなかった・話題にすることがはばかられたことが今はそのまま、まっすぐに考え・語り、聞くことができる… そんな感じでしょうか。

「お時間でございます。ありがとうございました」
万雷の拍手とともに、幕が下りると、舞台上の歌丸師匠のかたわらに、いつものように付き人たちが向かう。しかし、30秒たっても、1分たっても歌丸師匠はまだ立ち上がれない。舞台袖からは横顔しか確認できなかったが、肩で大きく呼吸をしているその表情はいつもより、苦しそうだった。

ようやく立ち上がることができた歌丸師匠は、付き人に抱えられるようにして楽屋へと向かった。
「命をかける」という言葉がある。このときの歌丸師匠は、まさに命をかけて落語に挑んでいるようだった。

楽屋に戻って、着物から私服に着替えた歌丸師匠に私たちは、話を聞いた。
「歌さん、頼むよ」と三遊亭圓楽さんから託され、必死に落語界を背負って走り続けてきた歌丸師匠。このまま落語を続けながら、落語をむにゃむにゃとつぶやきながら亡くなっていくことが理想の「終い方」だと話していた。

出展:NHKスペシャル取材班・「人生の終い方 自分と大切な人のためにできること

半身不随だった祖父が見せてくれた「終い方」

落語をむにゃむにゃとつぶやきながら… それは歌丸師匠の思いかも知れませんが、考えてみると、私たちの祖父・祖母のころから、歌丸師匠が言われるような「終い方」を背中で見せてくれる人たちがすぐそばにたくさんいた時代があったのですよね。

私の母方の祖父は脳溢血の発作に3度見舞われた人でしたが、ほとんど最後まで、自分のことを自分でやろうとする人でした。

動かせなくなった片腕を体に縛り付けてもらってバランスを取れるようにし、杖の持ち方を工夫しては動かしずらくなった片足を引きずるようにして散歩へ出かけるのです。

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玄関の框から下に降りることも、外に出るために靴を履くこともままならない体だったのに、それさえ手伝ってくれればあとは自分でやる! と言いながら外に出ていくのです。歌丸師匠にとっての落語とはちょっと次元が違いますが、命ある限り生きなくてはいけないという意味のことを言っていた祖父らしい毎日だったように思うのです。

なぜか私には、歌丸師匠の落語にかける情熱が命ある限り生きなくてはいけないと言っていた祖父の言葉を思い出させれくれます。

「終い方」は「生き方」そのものなんじゃないかなと思わせてくれるのです。