『人は変化に期待するが 同時に変化を怖れる。』

出典:矢作直樹氏 著・「人生は、約束

確かにそのとおりだと思います。
けれど、そんな自分の中にある限界を超えることってできるのでしょうか?

組織改編を進める会社組織の中にいるからでしょうか。変化という言葉にはずいぶんたくさんの意味があって、

  • 自分たちは変わるべきだと言いながら、よくよく話しを聞いてみると、
    • そう言っている本人は自分が変わろうと思っていないとか
    • 自分で何かをしなくてはならないとは思っていなかったとか
  • 変わろうという言葉を聞いただけで、いったい何が起こるのだろうかと心を固くして、相手の話しの真意に耳を傾けることさえできないとか、

私たち自身もずいぶん様々に反応するものだと感じます。

もしかすると、「変わろう」「変えよう」という言葉は使わない方がいいのかも知れないと思うくらい、私たちは変化という言葉にアレルギーを起こすようにできているのだろうかと思うほどです。
「成長したい」とか「成長しよう」と言い換えてみたらいくらかでも受け入れることができるものでしょうか?

自分にとって正しいものを知ることができるか

ただ、どうもそう簡単にはいかないというのは私たちの誰もが感じていることだろうと思います。

すべては必然として起きています。私もあなたもこの世界に必然として存在します。極論すれば枯葉が落ちるその刹那でさえ必然の産物です。
出来事に良し悪しはありません。
良し悪しというのは、そのときの「心の状態」で決まります。時間が経つとことで、あるいは視点を変えることで、良し悪しが入れ替わることもあります。

『良し悪しというのは、そのときの「心の状態」で決まる』 - というときの「心」とは私の気持ちのこと。つまり「主観」ですね。そして、私たち自身は、これこそが自分自身だと思っているその主観が、実は、私たち自身が望むもの以外のものに囚われているというのです。

だから、私たちは自分を取り巻く世界をあるがまま - つまり、客観的に捉えることができなくなっている… 矢作さんの話しはそんなふうに続いて行きます。

さまざま願いを自然な形で実現するために、成長する過程でいくつもの経験をし、そこで生まれる学びを取得しました。
しかしその途上、なぜか願いが歪みます。
こうしたいが「こうすべき」へと変わってしまうのです。

 

思えば、「変わろう」と言うにしても「成長しよう」と言うにしても、何より大切なことはそのエネルギーがどこから来ているのかということ。

何かひとつのことを正しいと感じる感覚 - 誰を相手にしても、どんな基準を持ち出されても、場合によっては誰にとっても正しいと思える心情 - 心の中心からそうしようと思えているか… そんな一番純粋なところから出てきているエネルギーに支えられて「変わろう」「成長しよう」と言える力がほしいものだと思います。

 

私たちは自分が本当に望んでいるものをどれくらい分かっているでしょう?

こうしたい” という願いを自然なものだとするなら、”こうすべき” はその願いのどこかが変質しているもの?! という話しは分かるような気がするのですが、歪みのない、バランスの取れた”こうすべき” の感覚もあるような気がします。

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自然な願いと言われるとその反対側にあるのは “しがらみ” とか “分別” というような言葉で表現されるものになりそうですが、”こうしたい” という願いも経験を積み、年齢を重ねることで、バランスの取れた一番安定した「べき論」にたどり着くということがあるのではないだろうかとも思うのです。

 

物の所有者である「私」は、時期が来ればこの世を去ります。したがって何かをずっと所有することなど、もちろん不可能です。
(中略)
時間という変化は誰にも止められません。
そうであるなら、身の回りの変化をいかに楽しめるか?
そこが私たちに問われます。

変化を楽しめるほどの懐の深さ - その先にあるものが余計なものをそぎ落とした “こうしたい” という願いであればそれに越したことはないのかも知れません。

けれど、「変化を楽しめる自分でなくては」 という「べき論」さえ感じない自由さとか、柔らかさを求めたいものだと思うのです。