『いのちが喜ぶ生き方』 - 生きるための勇気とやさしさ

生き方… なんて、ちょっと重いかもしれないけれど

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自分に訪れるそのときのために - これからの私は、家族と自分のために備えるという意味で、こうした問題を意識しながら過ごしていくのではないだろうかと思いながら矢作直樹さんの著書『「いのち」が喜ぶ生き方』を読み返しています。

ページを開いて最初の言葉は、

医療現場に長年、籍を置いている者として感じることがあります。それは私たち医師には普通であっても、一般的には解釈が揺れる言葉が結構あるということです。

そして、その第一章は “「いのち」の数だけ、医療がある” と題されて、私たち患者の立場の人間と医療の間を語ってくれています。

私は翻訳の仕事をしながら、言葉には普遍的な - 万人が良しとする - 品質というものなど存在するのだろうかということを考え続けていますが、「伝える」「伝わる」という意味において、この矢作さんの言葉は至極当然 - これこそ人と人のコミュニケーションの本質を言っている言葉なのだなと思うのです。

翻訳が伝えることをサービスの目的としているとすれば、
医療は受け止め、伝えることを手掛かり、時には手段として患者のために働く。

この「伝える」「伝わる」、あるいは「分かる」「受け止める」ということぬきに私たちの社会的な活動 - 人との関わり - は成り立たない、それは言われるまでもないことなのですが、真摯に向き合う姿勢を忘れるわけにはいかないのだとあらためて確認する思いがします。

医師である矢作さんが “コミュニケーション” を語っていると思うからでしょうか、まだ記憶に新しい、経験してきたばかりの医療とのコミュニケーション、そして自分で感じ考えてきたことを思い出します。

感じたり考えたりしていたことが色々なところで矢作さんの言葉に重なっているような気がするのですが・・・

医師であるとかないとかいう立場という条件がなくても、人の間のコミュニケーションにはそもそもそうしたデリケートさ、むずかしさがある - そのことが1つ。
そして矢作さん自身が語っているように、医師もみな一人の人間だということがもう1つ。
つまり、医師の判断の主観・客観のバランスを決めているのはその人の価値観だということでしょうか。

矢作さんは、医師が自分の健康診断やその必要性をどう受け止めるかという話しとしてこんなことを語っています。

自分が患者なら、その医療を受けたいか

ここがすなわり「覚悟」の部分であり、何ごとも最後は自分次第です。
一人ひとりが多様な生き方を模索することが自由な時代に、十把一絡げの対応はできません。目の前で医療を待つ人には全力を尽くしますが、自分には自分のやり方がある、それは誰にも侵されたくないという人に対して、医師が強制的に医療を受けさせる権利はありません。

(中略)

何も健康診断に限りません。要は割り切りだと思います。結局、患者さんの望むものと医師の望むものが違うからです。自分が患者目線になったときには、そういうもの(特定の治療)は必要ないと断言する医師はかなりいます。「オーダーメイド」という発想の医療がすでに必要な時代になってきたものと思います。

そこにはかつてと違い、医師や看護師といった医療従事者が「自分ごと(我がこと)」として考えるようになった背景が関係します。自分や自分の家族だったらどういう治療を選択するかという視点に立って、患者さんの医療をすることです。そこに医療の存在意義(レゾンデートル)があります。

矢作 直樹 氏著・『いのちが喜ぶ生き方』

「患者さんの望むものと医師の望むものが違う」という言葉はさりげなく発せられているように感じますが、

医師は “医師の目線の判断に従って私たちに対応してくれている” のだから、私たち患者が患者としての望みや意志を伝えることを怠れば、医療(医師)と患者の間のコミュニケーション - 患者がイメージするインフォームド・コンセント - は成り立たなくなってしまうのだよと言っているように私には聞こえます。

患者の側の私たちはそのことを忘れてはいけないのだなと感じるのです。

少なくとも私が感じてきた - 2011年から2014年当時の - インフォームド・コンセントはまだ医療の側にあって、医療の現場にはしっかり根付いているものではなかったという印象があります。

矢作さんの言葉にあるように、話しをする人ごとに - 医師も患者も含めて - その意味や定義が異なり、求めるものが異なっているという感じを強く感じていました。

それぞれに求めるものが違っている、少しずつずれがあるということはやむを得ないとしても、その違いを埋めようとする意識が共有されていない、あるいは共有するためのシステム、手続きが確立できていないということをはっきりと感じたのです。

患者の側には医療というものの標準レベル - こうしてもらってあたりまえじゃないの!? という期待が根強くて、そうした種類の話し、つまりどういう治療を望むのかという話しをしようとすれば、素人の自分たちにその判断を求めるのであればもっと情報を与えてもらわなければできるものではないということになる。

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ところが、患者の側からたとえば、治療の選択肢、ほかの可能性という話しをしたいとアプローチをかけても、医師の側から帰ってくるのはほかの判断が必要であればほかの機関、ほかの医師に聞いてくれというのに近い、どちらかと言えば拒絶反応と言えそうなほどの頑なさを感じる場面が少なくなかったのです。

コミュニケーションを持つ以前の話しですね。

コミュニケーションにある2つのハザード(障害物)は、実は自分たちの中にある - 矢作さんのこの第一章から、患者として伝えたい、受け止めてほしい思いを確認しておきたいと感じます。

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