言葉も気持ちも生まれながらのものだから

日本人に日本語が通じない!?

矢作直樹さんの著書「人生は、約束」を読みながら、言葉とか気持ちとかいうものはとても不思議なものだとあらためて感じています。

あなたは言葉少な目ですか? 多めでしょうか? お風呂に例えるなら、心地良い、自然でいられる適温の言葉を私たちは探している - そんな気がしてきているのですが、これまでの自分の歩みをふり返ると、適温と感じることができる言葉や気持ちを覚えるまで、ずいぶんあれこれ苦労してきたような気がします。

そういう私は、実はオブラートに包んで話すことが苦手です。
仕事上、必要だと思えば方便も使いますが、それでも割とストレートに相手に伝えます。おかげで「あなたは人の気持ちがわからない」と苦笑されたことが幾度かあります。
そういう反省もあり、積極的に余談をすることがなくなりました。

そう言う矢作さんは反省もあって言葉を控え目にされたようですが、私の場合はその反対。

どちらかと言えば、頭の回転は早い方ではなく、思ったり感じたりしたことを言葉に置き換えることがうまくできない方だったように思います。子どもの頃にはそのことをずいぶん諭されたり、怒られたり、責められたりしたことを覚えています。

だから物心ついてからも、「これはこういう意味の言葉でこう時に使う」、「あれはこういう意味だったからここでは使えない」⁈… というように、日本語のボキャブラリー(語彙)を蓄えてきたような気がするのです。
私は正真正銘の日本人なんですがね‼︎^^;

伝えることをあきらめないからこそ

その結果何が起きたかと言えば、言葉が重くなるのです。

「こういう事を伝えたいからこの言葉…」 みたいな “余計なオモリが付いている…”、”スムーズじゃない‼︎” と相手に感じさせますから、敬遠されますね。
なぜ伝わらないんだろう⁇ と思うものだからますます重くなるのです。だから私の場合は、滑らかさを求めて、下手な日本語? を一生懸命使おうとしていました。そこが矢作さんとは逆です。

逆なんだけれど、矢作さんの例にしても、私の場合にしても、不思議なのは、言葉には距離感というものがあるというところが同じだと思うのです。
「言葉には」ということは、「人には」ということかも知れません。自然とそこに収まる… そんな場所があるのです。

矢作さんは言葉を控えることで、私は言葉を使うことで、その収まるべき場所に収まった - 収まるべき場所を探した - のではないかと思います。

 

私たちは夜空の星?

たとえば -
私たち自身を月と地球に置き換えてみてください。

地球のサイズから考えると月は衛星としては大きすぎる… などと言われることがありますが、ともあれ月は、地球の周りを回り続けられる質量や重力、速度や距離を保って、地球の周りを回っている。地球は月を引き連れて太陽の周りを回っている - そんな感覚に近いでしょうか。

 

言葉や人というものには質量のようなもの、重力のようなものがあって、バランスが取れる場所に落ち着くもの - そんな感覚です。

ただ気をつけなくてはいけないのは、伝えようとし、受け止めようとする心の力が働いて、言葉が生まれたり、感情が行き交うことで互いの重力を確認し、自分の場所を見つけることができるのです。

私の場合は多分 - 自分ではよく覚えていないのですが^^; - 同じひとつの気持ちをさまざまな言葉に乗せて伝えようとしていたと思うのです。
そのスタイルはそれこそ千差万別。人によってみんな違うでしょう。

スポンサードリンク

そしてさらに最近になって思うのは、年を取るということです。
何を意味しているかと言えば、年を取るのに合わせて、言葉も気持ちも質量や重力が変化するということです。

質量や重力 - つまり、自分自身を支えるのに必要な力の程度とか、周りの人たちに与える力のことです。多分、そんな感覚を持つこと自体が、私自身の質量を変化させるのだろうなと思います。

さて、私は地球の周りを回り続けられるでしょうか??^^;