生命に関わる話しはどんなものでも「逃れられない」という厳しさを感じることが多いように思います。でもだからと言って、どう備えればいいかと考えたとしても答えは簡単にはみつからない。
だから、
「そんなこともあるのだな」ということをひとつひとつ覚えながら、ひとえに心の栄養を蓄えておくことが大事なんだろうなと思いながら暮らしているのですが…

それにしてもこのタイトル、人によっては眉をひそめたくなるかも知れませんね。

でも中身は、佐藤愛子さんらしい芯のとおった落ち着いた雰囲気の口調で、生命というものに寄り添った、生命を慈しむような視線を感じさせる内容の本です。

 

お話しのきっかけは子どもだった佐藤さんの頭に突然浮かんだ思いからからはじまります。

頭の中から「死」を払い退ける---。
私に出来ることはそれしかなかったから、私は懸命にほかのことに思いを逸らそうとした。しかし私の目は人気のない夕方の庭の、優しい日射しを受けている樹々に注がれたまま動かず、自分が死んでもこの庭はこのままありつづけ、日は照り、人々は生きている。自分ひとりだけがいなくなるのだという思いに打たれ、いても立ってもいられずその場を逃げ出したのだった。

その頃の私にとっての死とは、世界は生きつづけるのに自分ひとりがいなくなるという孤独の恐怖だった。その中には父母と別れなければならないという恐怖もあっただろう。死がいちどきに父、母、私たちすべてを襲うのならまだいくらか救いを感じたかもしれない。たった一人で死んでいく。この世からいなくなる。死とはひとりぽっちになることなのだ。それが私を押し拉いだのだった。

出典:佐藤愛子氏著・「こんなふうに死にたい (新潮文庫)

もしかすると佐藤さんが経験したこの感覚によく似た経験をしている人がいるのではないかと思います。

かく言う私も5歳になるかならないかのとき、
遠い親戚のおばさんの葬儀の話しを聞いて、この世界から “いなくなってしまう” ということのないものはないのだろうか? そのものになるということはできないのだろうか? と考えたことがありました。

アリや蝶々、カエルやドジョウ、雲や太陽、いつも遊んでいた原っぱの草や木 - 思いつく限りのものを思い出しては、長い時間の先、そのものがどうなるのか、この世からいなくなってしまうことのないものを見つけようとしたのです。

その頃の思いをそのままに言葉にしてくれている佐藤さんの一節は、私たちが忘れていた - あるいは忘れようとしてきた - ものを思い出させるものかも知れません。
ただ、その淡々とした言葉が、そんな忘れていたものとしっかり向き合うために、背中を支えてくれるような気がするのです。

だからこの本は、命と向き合おうという気持ちになったときに開くといいのかも知れません。足さず、引かず - いたずらに怖れるだけでなく、いたずらに楽観的であろうとするのでもなく、淡々とした視線と口調には教わることがとても多いのです。

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美輪明宏さんの助けを必要としたお話し

霊感?のような、神秘的なものとのつながりを感じる力を持たない私には想像することもむずかしいのですが、北海道のとある場所に家を建てたところから、美輪明宏さんの助けを求めなくてはならない経験をすすことになったという佐藤さんのお話しは、佐藤さんの語る人生観とか命に対する感覚といったものの肌合いというか、色合いを伝えてくれるとても不思議な話しだと思います。

私の家に起こっているさまざまの現象は、どれが成仏出来ない霊魂の仕業でどれが神様の怒りなのか、もうこんぐらかってわからないほどに錯綜しているというのだという。

後にこの話しを人にすると、やはりたいていの人は眉ツバという顔をした。そうでない人は面白いお話を聞いたように笑った。藪から棒にこういう根拠のない話しに直面して、すぐに信じる人というのはまずいないだろう。しかし、私はすぐにそれを信じた。死は無ではなかったのかと思うゆとりもなかった。それを信じさえすれば、私の経験したもろもろの不可思議はすべて納得出来るのである。納得したいために私はそれを信じた。

出典:「こんなふうに死にたい (新潮文庫)」 - “屋根の上の不思議な足音” より

普段の私たちにはなかなかたどることができない、自分の前世や祖先の暮らしなど、それを知ることができたとしたら世界の見え方が変わるのは間違いないだろうと思えます。

そんな経験をしてきた佐藤さんの死生観、そして佐藤さん自身を語る言葉は不思議なヒントに満ちているように思うのです。