自分探し - “数字が風景に見える” その意味に近づけるか

自分が分かるということの意味

スポンサードリンク

一般の人たちがそうだと認めるもの、それを集めたものが常識だとすると、人が変わるとその常識も変わるはず。ところが私たちは、自分が知っている世界感、価値観を常識と同じ場所に置いて、そこから周囲を見ようとするところがある…

自分には理解しにくいものに出会ったときほど、人は常識を自分の味方にして、相手を理解しようとする前に自分を守ろうとする…

それがこれと言って異常なこととか、間違ったこととかいう意識がない、ごくあたり前の感覚なのですが。

そういう違和感を自分に感じることってありませんか?

学校でいろいろな数字を同じ黒いインクで印刷してある算数の問題プリントが出されると、ぼくはとても混乱した。そのプリントが間違いだらけに思えた。たとえば、どうして8の文字が6の文字より大きくないのか、どうして9が青ではなく黒で印刷されているのか理解できなかったからだ。そして、印刷機で9の数字を印刷しすぎて青いインクがなくなってしまったのだと解釈した。

そのプリントに書いたぼくの答えを見た先生は、書いてある数字が不揃いでめちゃくちゃだ、と言った。どの数字も同じ大きさで書くものだ、と注意された。数字をそんなふうに間違って書くのはぼくには辛いことだった。ところが、ほかの子たちはまったく気にしていないようだった。そのとき初めて、数字に対する自分の感覚がほかの子と違うことに気づいた。

出典:ダニエル・タメット 著・「ぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)

この著書の中には、著者自身がどんなだったかという話しがたくさん語られていて、この一節もその一つなのですが、私たちが自分とか個性ということを考えようとすのなら、彼の話しをたくさん聞いてみてはどうだろう… と、そんな気がします。

ダニエルの先生は、彼の答えを評価はしなかったのだろうか?? ただ、「数字が不揃いでめちゃくちゃだ」と言ったのでしょうか? 算数のプリントのはずだったですよね?!

その違和感が、どうも頭から離れなくなったのです。

何を基準に「分かった!」と思っているのか

私のその感覚はどこから来るのか、それは -
他人の価値観を押しつけられたり、外の判断基準でレッテルを貼られるように自分を断定されるなんていうことは一も二もなく否定するはずなのに、常識という言葉にめっぽう弱い?! あるいは、自分では意識しないまま、相手を常識で縛っているなんてことを感じる場面がとても多い… と感じてきたからです。

言葉を変えて言えば、自分や相手の言葉や行動を、私たちは何を頼りに受けとめたり感じたり、判断しているのだろうと思うことがよくあります。

“あります” というのは現在完了進行形 - つまり、20代のころから経験していたことだったんだなと思うようになったのです。20代の頃はまだ、今のように自分を理解もできていなかったし、自分の言葉で話すこともできませんでした。

それだけに、「常識ではない!」とか「人と違う!」と言われること自体に押しまくられて、違和感だけ… あるいは相手に対する不信感だけが残っていたように思うのです。

話す内容がむずかしい… ただそれだけのことで、「常識ではない!」というところまで評価が飛躍してしまう。そうやって飛躍させてしまって相手を分かったということにしてしまう… 人格の尊重も、個性の尊重もあったものではありません。

自分はどんなふうに立っているのか

そうなのです -
特に、個性というものを大事にしなくては… ということを盛んに言うような時代になってきたなと感じるようになって、余計に自分の中にある、相手周囲との間を判断する基準のようなものを意識することが増えているのです。

今はスマートフォンやタブレット、パソコン、自動車のナビゲーションシステムとか、カメラの手ぶれ補正機能にも使われているというジャイロスコープ(ジャイロセンサー)。

こんなことを言いながら私が思い描いているのは、このジャイロスコープという言葉と、地球ゴマの姿です。

ジャイロスコープには様々なタイプのものがあって、その原理も働き方も様々だということはそれとなく分かってはいるつもりですが…^^;
自分の中には姿勢や向きを知る装置(ジャイロスコープ)があって、その中心ではコマが回転し続けている。

ジャイロスコープ(回転型)は回転が止まってしまえば自分がどこにいて、どちらを向いているのかが分からなくなってしまう… そんなイメージがあるのですが、自分の中のどんな力がコマを回転させているのだろう… と感じるのです。この回転のエネルギーがたとえば、常識なのじゃないかと感じるのです。

著者のダニエル・タメット - 彼は、サヴァン症候群でアスペルガー症候群だと説明されています。

けれど、サヴァン症候群にしてもアスペルガー症候群にしても、何のために宣言されているのでしょう? ダニエルを理解するために必要なんでしょうか? 彼本人は、サヴァン症候群でアスペルガー症候群だというところから出版して理解されたいと思っているのでしょうか?

ごくまれに起こる心的身体的な状態 - その意味で、一般的ではない(ほとんどの人が当てはまらない状態)を xxx 症候群 と呼んでいる。それは一般的な(ほとんどの人)が、みんなと同じところから出発しないとそのもの・そのことを理解できないからそう呼んでいる… そんなふうに捉えるべきなんじゃないかと感じるのです。

一般的な、ほとんどの人が「みんなと同じところから出発」しているのですから、 xxx 症候群 というのは、違いを事前に認識しておくための優しさでもあるんだろう… とも思います。

スポンサードリンク

ダニエルの算数の先生が数字のばらつきに気を取られて算数の答えの評価を忘れていたとしたら、これほど残念なことはありませんが、「数字がばらついている」=「数字の書き方が正しくない」という感覚が働いたのは確かでしょう。

ダニエルが「なぜ9が青で書かれていないの?」と尋ねたとすれば、もっと激しいストレスが彼に向けられたんじゃないのかなとも感じます。

何が正しいか・正しくないか… そんな感覚で常識を信じている私たち自身を自覚できないとしたら、私たちにはやはり、個性を尊重するなんていうことはできないのかも知れないと感じるのです。

 

スポンサードリンク

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です