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家族は他人のはじまり⁈

子どもに迷惑をかける… その言葉は、
「時間的に・経済的に子どもに負担をかけたくない」ということを言おうとしているものがほとんどだと思います。

自分が育つ時には
「長男は家を継いでその後の家族の生活が立ちゆくように、家を支えていくもの」とか、「親が高齢になれば子どもはその面倒を見て、世間的も恥じることのない生活と対面を保つもの」のものように言われ、そうしたプレッシャーに応えようとしてきた私たちの親の世代。

その人たちが、「子どもに迷惑をかけないように」とか、「迷惑になってはいけない」とか言っているのですから、その言葉を言っている親の思いも、その言葉を聞いている子どもの思いも、察するに余りありますね。

日本の男性は妻に向かって「大事に思っている」とか、「愛している」という言葉を滅多に口にしたり伝えたりすることがないと昔から言われています。

思えば私たち日本人には、
自分の本心を後回しにすべしという感覚があるように思います。
かつては、より上のものを優先せよと言っていた - あるいは、信じていた - のですね。

夫は妻より上とされ、親は子どもより上とされ、兄・姉は弟・妹より、先生は生徒より… あるいは、世間は個人より上とされていた。

それが今は、個人が一番⁉︎ - だから、自分より相手を優先しなければということになる。
ときどき、とんでもなく自分の価値観を相手に押し付けたがる人に出会うのも、この個人優先の反動・裏返しなのだろうと感じますね。

個人を尊重する、だから相手を優先する⁈ - 何故自分が先じゃないんだ⁇ と。

そうですね。
その昔の、上のものが優先! の時代には、有無を言わせぬ圧力もありましたね。上下関係をわきまえろ! と。
その理屈から言えば、個人を尊重するのなら、しのごの言わずにこちらを受け入れろ! ということになりそうです。

子どもに迷惑をかけないように、というタイプの私たちの親の世代 - その思いの深いところには、わきまえたらしのごの言わないという、潔さのようなものがあります。

その潔さは、私たち子どもにとっては、話せば分かる・分かってほしいというレベルをはるかに? 超えています^^;
テコでも動かない! という頑固さを感じること、ありませんか?

個人を尊重する、だから相手を優先する - というタイプの個人尊重は、相手の思いをしっかり聞いて理解しようとする面がある。
けれど、良くも悪くもしのごの言わない感覚にとっては、自分の思いを伝える・表現するということがしのごのに踏み込んでいるのです。

余命宣告に向き合う義母の思い

何故こんなことを考えているのか - それは、腎臓の機能低下と余命宣告の診断を受けた義母の言葉に、しのごの言ってはいけない、子どもに迷惑はかけられないという思いを感じるからです。

「本当はこうしたいと思うけど…」と言葉にする人ではありません。
けれど、「人工透析を受けない」と言っている言葉は、人工透析は1人では受けられないという思いから出ている - 少なくとも私はそう感じています。

普段の生活は透析という治療中心のための生活になる、それはいくつもの意味で家族を巻き込むことになる。
透析を受けるために病院と自宅を往復することもそうだし、その日は食事の用意など、家族もそれまでとは違う対応をしなくてはならなくなる。

生活すべてが自分の都合で変質してしまう、そのことに対する不安や怖れがあると思うのです。

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人工透析という治療そのものにも恐さや不安があるのに、そのための生活が成り立たなくなる… そんな恐怖があるのだろうと思うのです。

義母が、そんな2つの恐怖を感じているとすれば、そしてもしそれでも、透析を受けても長生きしてほしいと感じるとしたら、私たち子どもの側も、その2つの恐怖を感じてやらなくてはいけないと感じます。

私の母がそうだったように、その2つの恐怖に心と体、両方で立ち向かわなければならないのですから。